6)彫塑家・長沼守敬生誕の地・・・新大町

新大町の住宅街の一角、私有の駐車場の入口に「長沼守敬生誕の地」の看板が立てられている。
 長沼守敬は、ヨーロッパで本格的に彫刻を学んだ最初の日本人である。わが国洋風彫塑界の揺籃時代の代表的作家の一人として活躍。
 守敬は安政4(1857)年、一関田村藩士長沼雄太郎の3男として新大町のこの地で生まれた。父と長兄を相次いで亡くし、次兄は他家へ養子に出ていたため、数え8歳で長沼家を継いでいる。
 明治7年上京、イタリア公使館に就職し語学力を身に付けたあと、14年イタリアのベニスに渡り、王立美術学校で5年間彫刻を学んで帰国し、美術学校(現東京芸大)の創立に参画。
 明治30年には、ベニス市設の万国美術博覧会日本委員として欧州を視察。32年美術学校に設置された塑造科の初代教授に就任。
 また、彫刻家としても活躍し、その作品は遠く台湾の台北市にも現存している。残念ながら太平洋戦争のさなか、銅像の多くは金属供出や戦災により消失したのが悔やまれる。
 代表作はパリ万国博覧会で金牌を受賞した「老夫像」・「伊太利亜皇帝像」・「毛利家一族6体」・「岩倉具視の像」などがある。また東大構内の医学図書館近くには、守敬が制作した「ベルツ博士像」「スクリバ博士像」の2人の胸像が立っている。
 長く彫刻界の第一線にあった長沼は大正3年に引退を表明。千葉県館山に隠せいし、娘や孫に囲まれて穏やかな日々を過ごしていた長沼は、80歳を迎えてつくったものが「自作像」といわれ、それから5年後の昭和17年、同地で息を引き取った。
 最近になって、墨田区梅若公園内に立てられている榎本武揚(五稜郭の戦いの後、黒田清隆の信任を得て海軍中将、ロシア特命全権公使、逓信、農商務、文部、外務各大臣などを歴任した)の銅像が長沼守敬の作とわかったという。
 また、明治29年三陸沖地震を契機につくられた在京ふるさと会「磐井郷友会」創立の名簿にも田村鎮、小川春水、菅原恒覧などと共に長沼守敬の名前も記録されている。

 わが国洋風彫刻の第一人者であった「長沼守敬」を偲ぶものとしては看板一つと言うのはちょっと寂しいような気もするが、なまじっかな銅像などではかえって失礼と言うものか・・・。それでも、新大町側の数少ないスポットはぜひポケットパークでもつくって欲しいものだ。


BACK