中心市街地探検隊

 駅を中心とした一関の街が大分寂しくなっています。賑わいを取り戻すには中心商店街の活性化が不可欠!と、何かと新聞紙上に書かれていますが、商業のみを考えた場合、どうしても行政と商業者の問題ととらえられがちで、消費者は別に郊外に買物にいくから関心が薄いようです。 2度の水害で全てが流れてしまい古いものは何も無くなってしまったと思い込まずに、商業以外の視点から一関の街を見た場合に少しでも街に親しみを感じる事ができるほんの小さなスポット、無機質なコンクリートの街中でのひとこまを、一市民としてさがしてみたいと思います。もちろんこれは個人の勝手な主観です。そんなもの面白くも何ともないと思われるかも知れませんが、それぞれがそれぞれの立場で魅力を発見する、作る事が市民みんなの街を考える機会になり、小さな歩みですけどいつの日かひとり一人が愛着をもつことを期待して。。。。。。

8)建部清庵生家跡・・・一関市田村町

 古謡に「一関に過ぎたたるものは二つあり、時の太鼓に建部清庵」と謡われた一関藩医「建部清庵」は1712年、一関藩医の家庭に生まれ、仙台、江戸で医学を学び、藩医を継ぎました。内科、外科に優れた治療をほどこし、名医の誉れが高く前述の謡が出来たといいます。
 寛延年間の飢饉を体験し、農民が餓死する姿を見て、宝暦5年(1755)中国の古い文献をもとに医師としての知識も加え『民間備荒録』を出版します。16年後の明和8年にはこれらの植物の見分け方を知らせるため、特徴を絵に描いて彩色した『備荒草木図』(上下二巻)も編集し、飢えに苦しむ多くの人々を救いました。
 この先駆者の偉業を讃えると共に、その意とする「医の心」の万分の一なりとも継承すべく願いをこめて、一関市医師会もシンボルマークとして制定しているほどです。
 生家は川小路(今の田村町、図書館の通り)にありましたが、所在を示す小さなパネルが掲げられているだけです。近年、磐井川の堤防のかさ上げ、拡幅がはじまると報道されています。家屋の移転等でちょっとした空き地ができるとか、公共機関の再配置で多少の御配慮をいただいて、これを契機になんとか建部清庵顕彰の、ポケットパークでも出来ないものかと思います。「一関に過ぎたるもの」らしくあるために。
※関連する施設として釣山公園の「清庵野草園」はどうなっているのだろうか?
(2.4)

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