4)高平小五郎生誕地・・・上大槻街(久保田歯科向い)

 上大槻街のちょうど中間、久保田歯科医院の向いの駐車場に、高平小五郎生誕地の碑がある。
 高平小五郎は
 国学者高平真藤の養子。工部省に出仕したが、外務省に転じ22歳で米国に勤務。外務書記官を経て再び米国に在勤、続いてオランダ・イタリア・オーストラリアなどに駐在。この間に三国干渉の情報をいち早く、日本の外交対策に貢献。明治31(1898)年外務次官となり義和団事件の収拾に当たる。日露戦争当時、特命全権公使として3度米国に駐在し首席全権小村寿太郎を助けて、ポーツマス条約の早期締結を図った。明治44(1911)年外務省を去り、のち枢密院顧問官を最後に死去。
とある。
 1905年のポーツマス講和会議では小村寿太郎と供にロシア語、日本語、フランス語および英語の4カ国語を駆使して、条約の締結を成し遂げた。
 ここまでは歴史の時間に習った人も居ますが、今では思い出す人も少ない。残念な事に一関市の観光パンフでは必ず紹介されているのだが、現地はどうであるかと言うと写真の通りである。別に大々的に顕彰しろとまでは思わないが、碑の前にフェンス・看板・ポールまで立っていてはお粗末に過ぎないだろうか?
 せめて碑の周囲ひと坪程度のポケットパークにすることは不可能なのか?
教育委員会・商業観光課・建設課などがスクラムを組んで解決して欲しいものである。観光の街・もてなしの心をいかに声高に叫んでも、私たちの本心はこのようなものなのかもしれない。
 条約締結後小村、高平両人は当時の金で10,000ドルを州知事に献じて州の慈善事業の用に供して欲しいと願い出たという事である。この10,000ドルの基金により設立された「日本慈善基金」が現在もなお同州に存在し、運営されているという。
 同時にアメリカはこの条約に敬意を払い、毎年、記念日に当たる9月5日の署名の時刻にポーツマス市では一分間ベルが鳴らされ、笛も吹かれるという。 
 2005年の100周年は盛大に祝われるらしい。我が一関とは好対照の出来事であるが、3年後の100周年はどのような区切りをみせてくれるのだろうか?


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